最初に(続きを読む)をクリックしてください。
今年もあと2日、いつもと変わらぬ年の瀬ではありますが、テレビで今年亡くなった方の追悼番組を見ると、結構いろんな方が人生の幕をおろしました。私は相撲が好きで北の富士さんの解説を聞くのが楽しみでしたがもう聞けません。それから、何をやってもなぜか憎めない火野正平やチャーミングな人柄で人気の西田敏行、30代のころ、新入社員に向けた私の紹介パンフレットの写真は今年亡くなったアランドロンでした。(冗談のつもりでしたが、新入社員は緊張してたのでしょうね、10人の内2~3人は、気が付かなかったようでした。)さらに多くの男性の憧れ、ルパン三世の不二子ちゃん、同じフジコでフジコ・ヘミング、世界の小澤征爾、写真家の篠山紀信、読売新聞主筆のナベツネこと渡辺恒雄さん、山本陽子や中山美穂・・・・・。その他にも数多くの方が惜しまれながら天国に行かれました。
その中でもこの二人、ドラえもんの大山のぶ代と歌手の八代亜紀には、共通点があります。それは、二人とも、声優と歌手と言う声で勝負する世界で大成したのですが、小さいころは自分の声にコンプレックスを感じていたという点です。
大山のぶ代は、小さい時から、その独特な声をからかわれていて、中学では先生に当てられ発表すると周りがクスクス笑う、また何か話すと、笑われるので、だんだん無口になって授業が終わると逃げるように家に帰ってたそうです。ある時、お母さんに「学校に行きたくない。」と言うと、母親は「弱いところをかばっていたら、どんどん弱くなる。声が悪いからと黙っていたら、その内、声が出なくなるよ。」と言われ、意を決して放送部に入ったそうです。その後も放送をするたびに笑われていたけど、だんだんみんなも慣れてきて、のぶ代が放送しても誰も何も言わなくなってきたそうです。その後は、演劇部にも入り、その独特の声で人生を切り開いていきました。そして、ドラえもんの声を担当するようになって原作者の藤子・F・不二雄さんに「先生、あの~こんな声でいいんでしょうか?」と恐る恐る尋ねると、原作者から「ドラえもんって、ああいう声だったんですねえ。」と感心され、それから26年間ドラえもんとして世界中の多くの子供たちに夢と勇気を与えることになりました。
八代亜紀さんも小さいころから、あのハスキーボイスですので、小学校では「子供がませた声で歌ってはいけない。」と先生から叱られ、悲しくて歌うのをやめたかったそうです。その後、父親に買ってもらったジュリー・ロンドンのレコードで「フライ・ミ・トゥー・ザ・ムーン」を聞いたとき、何となく自分のハスキーな声に似てるし、ジュリー・ロンドンの顔もどことなく自分に似てる、(確かに目鼻立ちのしっかりしたところなど似てる。)と、もう一度、歌う夢を追ってみようと、16歳の時、18歳と年を偽って地元でクラブ歌手になり、さらに上京して銀座で歌いながら歌手を目指し、その後、いくつものヒット曲を出す大歌手へとなっていきました。
以前このブログで、万博公園の太陽の塔を作った芸術家、岡本太郎の言葉「下手は個性だ!」を紹介しましたが、本当にその通りですね。二人とも小さい時に普通と違う声だからと、みんなと同じようにするために矯正されたり、声を出すのを疎まれ続けたとしたら、こんな大成功はなかったですね。二人の成功の秘訣は、まさに自分の弱点にあったということです。弱点を克服し、それを自分の武器として大成し、亡くなった後も大きな影響を残したお二人のご冥福をお祈りします。
まあ、この二人はある意味ラッキーだったし、素晴らしい才能は、すぐに周りに伝わったでしょうが、世の中、そして私たちの周りには、本当に下手で、どうしようもないケースもあると思います。でも、あの醜い毛虫が美しい蝶になることもあります。ちょっと周りと違うからと言って、排除したり、無理に変えず、ちょっとの忍耐と愛情で見守ってあげたいですね。
さあ、新たな年に向けて、今年も最後まで読んでくださりありがとうございました。
みなさん、良いお年をお迎えください。では、次回は2025年1月10日前後に更新します。
(お知らせ)
遅れていたブログの単行本ですが、いよいよ来年1月末ころには発行できる段階になりました。アマゾンでも1500円で販売しようかなと思っています。また、発行日等内容が決まれば、このブログ誌上でお知らせします。
(お詫び)
八代亜紀さんが亡くなったのは、今年ではなく、昨年の12月30日でした。ただ、ニュースになったのは今年に入ってからです。すみません、書いてから気づきましたので、訂正せず、そのまま行きます。