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11月も終わりになりました。昔から、小の月を覚えるのに「西向く侍」=にしむくさむらいと言う言葉を使っていましたが、小さいころ「にしむく=2,4,6,9は分かるけど、何で11月をサムライと言うの?」と聞いたら、侍=士=十一なので、11月は士=十一なのよ、と母に教えてもらった記憶があります。
じゃあ、「なぜ小の月と大の月があるのか。」とか「2月はなぜ28日しかないのか。」など、暦にまつわる疑問はいくつかあるのですが、特に「なぜ、7月と8月は大の月が続くのか?」については、全くの個人的エゴで決まったという説があります。
それは、現在の暦(グレゴリオ暦)が使われるようになった1582年までは、有名なローマ皇帝ジュリアス(ユリウス)・シーザーが紀元前42年に作らせたユリウス暦を使っており、シーザーが生まれた月が7月であったため、月の名前もジュリアス(Julius)=ジュライ(July)と自分の名前を付けました。そして、その養子である皇帝オクタビアヌス(アウグスツゥス:写真)が、今度は自分の生まれた8月に自分の名前を付け、アウグストゥス(Augustus)=オウガスト(August)と言う名前にし、それまで30日しかなかった自分の月がシーザーの月より日数が小さいのはおかしい、と強引に31日にした。というものです。(そもそも、それ以前から8月は31日あった、と言う説もあるらしい。)
そして、その二人の皇帝に共通するのが、ポピュリズム政治により月の名前も自分の名前にするくらいに絶大な権力を握ったということです。ポピュリズムとは大衆から人気を得ることを第一とする政治で、分かりやすい言葉で大衆を扇動したり、時として庶民の味方を標榜しながら自分たちと違う層を敵対視し、攻撃する。シーザーもアウグストゥスも特権階級の貴族等を批判し、大衆には土地を与え、穀物を無料で配ったり(シーザー)、パンとサーカス(娯楽)を大衆に与えて、人気を博すという手段をとったり(アウグスツゥス)と、大衆が喜ぶことを巧みな宣伝と自らのカリスマ性を高めながら、追及していきました。それら一見、大衆に受け入れられた施策も次第に民衆の依存が大きくなり、財政を圧迫したり、自分のカリスマ性が強くなりすぎて反対勢力から暗殺されたり、両皇帝のポピュリズム政治は、結局うまく行きませんでした。
このポピュリズム政治における、大衆に受ける施策、敵対勢力を排除、それを分かりやすい言葉で宣伝、自分のカリスマ性を高める、・・・・・と書いていると、まさにドイツのヒトラーそのものに通じる危険な臭いがしますが、つい最近でも同じ臭いが漂い始めました。そうです、トランプさんのやり方と同じです。また、世界ではトランプさんだけでなく、あちこちの国で、大衆の味方と言いながら、移民排除、自国中心、バラマキ政治など、行き過ぎた”大衆迎合主義”が散見され、さらにわが日本でも財源は後回しで、広くお金をバラまく政策が優先されそうになっていて、おいおい、ちょっと待てよ、と言いたくなってきました。
確かに、日本では、まだトランプさんのようなカリスマは出ていませんが、この間から、「税収入が増えたから、使ってしまえ。」とばかりに減税策が検討されています。その判断は正しいのでしょうか? 確かに「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」と言う世帯には、手を差し伸べることが大事ですが、ガソリンや電気代等の無差別負担や財源も考えずに税金を下げるという理論で、今すぐに必要ない人にまで費用を使ってバラまくことはいかがなものかと思います。例えば、自分の家庭であれば、これだけ大きな借金をしている中、収入が増えたら、まずは借金を返そうというのが当たり前ですが、国単位になったら、とたんに”後世の子孫に少しでも負担をかけないようにする。”などと言う当たり前の考えが、どこかに吹き飛んでしまうのが不思議な感じがします。
現石破政権は、政治基盤の弱い政府ですから、どうしても広くバラまいて大衆のご機嫌をとり、支持を得ようとしがちになりますが、そんなことを続けていれば、その内、大衆は政府依存になり、金を出し続けないと文句を言い、政府は、そのためにさらに借金をして、財政が破綻でもしたら、20年後、30年後、さらに50年後、100年後の人たちに申し訳が立ちません。
国民や企業から集めた大事な税金は、必要とするところに重点的に支援する、そのためには、そうでもない人たちは、我慢するべきです。
でないと、その内、怪物のようなリーダーが表れて、大衆の味方と言いながら超絶大な権力を持ち、今さえ良ければ、自分さえ良ければと言う考えが大勢を占めると、さらに、そのエネルギーをどんどん弱者に向けて排除し続ける世の中(中世の魔女狩り、ヒトラーのユダヤ人根絶、毛沢東の文化大革命等々)にならないとは限りません。
「なぜ、11月がサムライなの?」と聞いてくる、まだ幼い子たちが、大人になって、さらに定年を迎える時に、本当に幸せな世の中になっているかどうかは、今現役の私たち次第だと思います。今さえ良ければ、己さえ良ければ、では決して良い国にはなりません。たまには、「武士は食わねど高楊枝」で我慢千両で行きましょう。