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ロシアの反体制指導者ナワリヌイ氏が亡くなりました。まあ、普通考えたらプーチンが自分に批判的な言論を封じるために殺した、と思うのが妥当な線です。
それが事実かどうかは別として、ロシアや中国などの独裁国家(形だけの選挙はあるが実質独裁)では、”自由にものも言えない。”ことは事実です。今回の事件は、かの国のように独裁者が弾圧する中、反対意見を発することの難しさを、まざまざと見せつけられました。それに比べて、「日本をはじめ自由主義諸国はいいなあ。」と思いたくなりますが、果たして、そう言い切れるでしょうか?
例えば、ロシア国民はプーチンが大統領になって経済的には過去より良くなり、国の統制が厳しいと言っても旧ソ連時代に比べると全然楽で、足元のウクライナ進行も優勢であれば、国民のプーチン支持率が85%と言うのもまんざらデタラメではないように思います。逆に、それを崩そうというナワリヌイの支持は、あくまで少数派で、ほんの数%に過ぎない。ところが自由主義諸国においては、ナワリヌイが正しいことを言ってるのに悪いプーチンが聞かずに殺した。なんとひどいことだ、とナワリヌイ支持が圧倒的で、ロシア国内と全く逆です。そんな中、自由に反対意見が言えるでしょうか?
例えば、テレビのコメンテーターが「ナワリヌイ氏は死んだが、プーチンが殺したと決まったわけではないし、ロシアの国民経済は上向き、昔より自由度は向上したので、プーチンは素晴らしい。私はプーチンを支持します。」などとテレビで言おうものなら、マスコミからSNSから周り中から”袋叩き”になるでしょう。さすがにそれだけで殺されることはないでしょうが、気が弱い人ならば自殺してしまうような痛烈な批判が殺到する可能性はあります。
政治的な問題だけでなく、今、世間を騒がせている芸人の”女性に対する対応”の問題も、もし、初代桂春団治が生きていてコメントしたら、こう言うでしょう。「芸人なんて、そもそも一般人と違うハチャメチャなアホやるから面白いんや、あんたらと同じ基準で判断せんといてや。」「わしの歌、聞いてみ、♪酒も飲めなきゃ女も抱けぬ、そんなドアホは死になされ♪やで。」ほんでもって「税金払えんようになって、税金屋が家財道具に差し押さえの紙貼ろうとしよったさかい、”貼るんやったらなあ、わしの口に貼らんかい”言うて、啖呵きったった。文句あるんかい!」と言い放って、マスコミやSNSで総批判。高座にも出られず、その後一生春団治の芸は見られない、ちゃんちゃん。と言う感じでしょうか。
何年か前に昔野球選手だったおじいちゃん(喝、で有名なH本氏)が、テレビの番組内で、女子ボクシングに対して「嫁入り前の女の子が殴り合って、こんなことが好きな人もいるんだねえ。」と言ったら、「男女平等なのにけしからん。」と痛烈な批判が集中。結局降板せざるをえないようになりましたが、おじいちゃんが若い女の子を見て、「大変な競技だねえ。」と心配しているだけで悪気も他意もないのに、とんでもないと決めつける。こんなことなんかも自由にものが言えない状態の一つではないかと思います。いいじゃないですか、このくらい。どこかのおばあちゃんが、男子のプロボクシングの試合後、腫れて目がつぶれたような選手の顔を見て、「大変だねえ、女の子にはやらせたくないねえ。」と言ったら「男女は平等なのに何ということを言うのか、けしからん。」と集中砲火をあびせますか。
このように意見や考えが一方に傾いてしまうと、自由主義の国であってもものが言えないことは、わが日本でも戦前には経験してきたことです。戦前に「戦争反対!」などと言うと国からだけでなく、一般の人たちからも「非国民!」とレッテルを貼られ、村八分です。現在は、インターネットが発達して、いろんな人がいろんな意見を言えるようになって、素晴らしいと思う反面、少数意見は全方向から否定され抹殺するという状況が作られつつあることは、ある意味、怖いと思います。誤解を恐れずに言うと、春団治が生きて行けるような世の中も私はいいんじゃないかと思っています。逆にすべての分野、すべての人たちが、ある枠の中に収まって、誰もはみださない世界の方が異様な世界ではないでしょうか。ナワリヌイ氏の悲報にあらためて「言論の自由とは何か?」と考えてみたいですね。
(あとがき)
ナワリヌイ氏は、帰国したら当局に拘束されると分かっていながら帰国を断行し、案の定、つかまりました。そして、最後まで「諦めるな!」と言うメッセージを残し、この世を去りましたが、すごい意志の人ですね。このことがロシアに限らず、
世界中の言論弾圧で苦しんでいる人たちに勇気を与え、少しでも良い方向に進むことを願っています。