(続きを読む)をクリック
今から20年以上前にジョントラボルタとニコラスケイジ主演で「フェイスオフ」と言う映画がありました。大規模なテロを計画していた非情なテロリストであるニコライケイジを、銃撃戦の後逮捕し、FBI捜査官トラボルタにニコラスケイジの顔を移植する。そして、テロリストに成りすました捜査官が大きなテロを防ぐと言う映画でした。これの面白さは、今まで悪党だったニコラスケイジの顔を正義の味方トラボルタに移植した途端、悪役であったニコラスケイジの顔が急に正義の味方になってしまう。そうすると、顔を変えたという事実を知らずに悪役を捕まえようとする警察官たちも顔を移植するまでは、味方として見てるのですが、顔を移植した後は主人公を捕まえようとする敵に見えてしまう。警察官はニコラスケイジを捕まえると言う同じことをやっているのですが、味方に見えたり、敵に見えたりと、立場(見方)が変わると180度違って見えるのが面白かったですね。
そんな、「立場が違えば・・・」を考えることは、子供にとって大事な教育だと思いますので、2022年1月30日付ブログNo142「恥を知れ」に書いた逆転ゲームが、なぜ必要かをここで説明したいと思います。
まずは、「アリとキリギリス」について。私がまだ幼かったころ、イソップ物語の本が家にありました。その中でもよく覚えているのが、「アリとキリギリス」の話です。挿し絵は冬の雪が降っている場面でバイオリンを持ったキリギリスがアリの家の前で食べ物を分けてほしいとお願いするのですが、アリは「君は夏の間、バイオリンを弾いたりして遊んでばかり、何も仕事をしていなかったのでダメだ。」と断るシーンでした。(しかも意地悪そうに「帰れ、帰れ。」と言ってた。)子供心に何かキリギリスが可哀そうだと感じていましたが、物語は「アリのように一生懸命に働きなさい、でないとキリギリスのようになるよ。」と言う教訓です。しかし、キリギリスは遊んでいたというよりバイオリンを弾いていたので、いわば芸術家のようなものですから、そこを少し理解してあげてアリも少しくらい食べ物を分けてやってもいいんじゃないかと思いませんか? 普通、困った人を見たら、まず助ける、そう考えるとアリのこの仕打ちはひどいですよね。(あとで少し調べてみたら、実は、1930年代にウォルトディズニーが、アリとキリギリスの物語を映画にしたそうですが、その時の最後はアリがキリギリスに食べ物を与えて、みんなで幸せに暮らした、と言う話になっていたそうです。さすが、ディズニーですね。納得!)ほかにも「桃太郎」なんかもそうですが、犬、サル、キジを連れて鬼退治に行きますが、退治された鬼にも子供がいるでしょうし、簡単に退治され殺されたら鬼の家族はさぞ悲しむことでしょう。さらに、「ウサギと亀」の話も、途中で寝ているウサギを横目で見ながら亀は知らんふりをしてゴールに先に行きます。ちゃんとした立派な亀なら(立派な亀がいるかどうか知りませんが・・)ウサギを起こして、「まだゴールじゃないぞ、がんばれ。」くらい言うのが、正しい生き方ではないでしょうか。
このように見方が違えば、どちらも正しいと言えるのが、世の中の仕組みで、企業の中でも立場が違えば、全く異なる基準で動く場合があります。売上を上げたい部門と品質を担保したい部門など、それぞれの立場の違い見方の違いから主張が異なるケースは、ままあります。立場が違って、物の見方が違うと互いに自分が正しい、相手は間違い。自分は正義、相手は悪と考えるようになります。その究極の姿は、例えば戦争です。戦争している当事者は、それぞれ自分が正しいと思っているわけで、それぞれが、「自分は、正しいことをしているのに何故、相手に妥協せねばならないのか。」と、なり、結局、一方が勝つまで終わらないという事になります。
そうならないためには、最悪になる前に、どこかで相手の立場になって考える余裕を持つことだと思います。いろんな争いは、相手の立場を考慮するだけでずいぶん減ります。そのようなことを教育で教えることが大事ですね。例えば、子供にイソップ物語を読ませて、「一度、キリギリスの立場になって考えてみたら、どう感じるか?」とか、桃太郎を読んだ後に「鬼を退治する以外にどんな解決方法があるだろう、もし、自分のお父さんが鬼さんだったら。」など、多面的に物事を見て、相手の立場も考えることができる、そんな子供が増えるといいな、と思いますね。(屁理屈ばかりこねる子供が増えるかも。ですが。)皆さんも腹が立つようなときには、相手の立場で考えてみると、そんなに腹を立てることでもない場合があります。ちょっと見方を変えて見る!これ、結構大事ですよ。やっぱり、小学校の道徳で「逆転ゲーム」やりましょう!
(あとがき)
「立場が違えば、」を考えると日常でも多くのケースが存在します。車に乗っていると横断歩道や信号の右左折時に止まると、当然のようにゆっくり歩く歩行者がいると、「ちょっと、急いで歩けよ。」と思いますが、相手からすると「車が止まるのが当たり前。何で急がないといけないのか。」となります。車同士でもすれ違うのに狭い道では、ちょっと端に寄せて止まり、相手が来るのを待ったりしますが、中には、さも当たり前のようにスーッと行く人なんかもいます。やっぱり相手の立場で考えると、歩いていても車が止まってくれていれば、ちょっと小走りに手を挙げて、「ありがとう。」車がすれ違いずらいところで止まってくれれば、手を挙げて、これも「ありがとう。」こう言う日常のちょっとしたマナーは、人間社会を生きていくのに大事なことですね。これからも相手の立場を考えられる立派な大人になれるように頑張りたいと思います。